それでも人生にイエスと言う

もう、ただの日記だに

インターネットでは難しいこと

会社では、ネットオタクと言われ、インターネットが成す力を妄信している私だが、他のメディアを毛嫌いしているわけではない。

インターネット以外のメディアの底力を感じるのは、やっぱりテレビの力。とりわけ、自分の興味の範疇外のことに関して興味喚起を促してくれるパワーはすごいと思う。最近も、その力を実感したばかりである。

ある時、何気なく付けていたTV番組で都内リサイクルショップの紹介をやっていた。私はちょうどその時、インコ撮影のためのデジタルカメラが欲しかったのだが、新品を買うことしか想定していなかったため、「なるほど、その発想はなかったわ。」と思いさっそくググった。インターネットだけだったら、ひたすら価格コムなどで金額を比較するだけで終わっていたかもしれない。 (その時、公式サイトはすでにパンク状態。影響力のパイの大きさという意味でもTVの影響力を改めて実感した。前々から、テレビを見ながらインターネットをする人は多かったとは思うけど、最近のノートPCの普及でそのスタイルはさらに一般的なものになるんじゃないだろうか。)

テレビの他に同様の影響力があるとすれば、(正しくはメディアではないかもしれないけど)たとえば、電車内広告とか、街頭デジタル広告などがある…。これら昔から続く、既存の広告手法が顧客へ促す注意喚起の力は、現状のインターネットが唯一勝てない点だと思う。

最近、読み直した、認知心理学者下條先生の著書「「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤」に書かれている言葉で印象に残っている記述。

人は与えられたすべてを見てから動機をはたらかせて選ぶのではなく、動機の文脈に沿わないものは「最初からみえない」のです。

なるほどな。と思った。

確かに、ネットの広告は、自分が見たいコンテンツの文脈に沿っていない限りは”見えてこない”。なぜなら、ユーザーは別に広告が見たくてそのページに訪問しているわけではないから。広告と認識した途端、その情報は単なる”広告”という記号でしかなくなるわけで、中身はまったく見えていない。

だったら、他のテレビCMやら、街頭広告だって同じじゃない。と思うかも知れないけど、実はぜんぜん状況が違うと思う。テレビCMは、顧客が求めるコンテンツ(番組)とははっきり分断されて現れる。街頭広告や車内吊り広告も、目的地に着くまでの過程に現れるだけで、本来の目的を広告が阻害することはない。これらの広告は目的のものと広告が同じ瞬間に混在することは決してない。だから、広告が目に入ってたとしても、非常にニュートラルに受け入れられているのではないだろうか。少なくとも、門前払いでシャットアウトすることなく、広告のクリエイティブがよければ、もっとしっかり見てくれる可能性だってある。

・満員電車で視線の逃げ道として毎日仰ぐことになる車内吊り広告 ・終電近くで疲れ果てて、座るといつも目に映る対ホーム壁の大きなポスター ・渋谷の大交差点での信号待ちでふと見てしまう大音響のデジタル広告 ・一方的な閑話休題として押し付けられてもつい見てしまうテレビCM これらの広告は人々がまったく想定していない情報を、一方的に、でも人々の目的を阻害することなく、最大限のインパクトをもって伝えようとする。人々が何らかのアクションしなければ何も情報を伝えることができないインターネットとは違う。

0状態の顧客に対して、一方的に認知段階へ進ませるためのアプローチができるのは、インターネットではまず難しい。だからこそ、インターネットの広告はコンテンツマッチ型が支流になるのだが、それは1から2、1から3にはできても、0から1にすることはできないのではないだろうか。

多少、うっと惜しくもあるが、この0を1に変える力は非常に貴重だと思う。 私がtwitterこんな発言をしているのは、以上の考えによるものだったりする。