それでも人生にイエスと言う

もう、ただの日記だに

死を認識するということは、亡骸と向き合うということなのかもしれない

昨年度末に、愛しいチャチャが旅立って散々泣いて泣いて泣き通した中でも、感じたことや考えたことがあるので、いくつかまとめておきたい。


子供の頃から、実家では犬やインコを飼っていて、その分、たくさんの子を見送ってきた。特に、鳥は直前まで体調が悪いことを隠すので、その死は突然訪れる。それはかつての経験からも理解していたし、ある意味では「死」に慣れてたつもりだった。

大学や社会人になって実家を離れた後も、柴犬や数々のインコ達が天へ旅立っていった。その度に、親から「あの子が死んだよ」と電話で報告を受けた。その時、いつも「ああ、そうか…。」と思うだけだった。おそらく実感できていなかったんだと思う。実家に帰っても、あの子達がいない。でも、それは「死んだ」わけではなく、私の前から「いなくなった」だけだった。

この感覚はペットに限らない。私は、大学院時代に亡くなった母方の祖母の葬式に参列できなかった。実家に帰った時には、祖母の遺影があるだけ。実家に帰る度に、祖母の遺影に手を合わせるが、実は未だに、祖母が死んでいるということがピンと来ていない。どこかにいる気がしてならないのだ。

だから今回本当に十数年ぶりだった。愛しい者の亡骸と直面するのは。これほどつらいとは…。

つい数日前まで、元気そうにピィピィ鳴いてた子が、唐突に冷たい亡骸となって動かなくなっている。美しい毛並みもそのままに、まるで本当にただ寝ているだけのような気もするのに…確実に死んでいる。そして、もう二度と動くことはないのである。

ああ、「死」とはこういうことなんだ。と改めて実感した。

その日は、家に一人だったんだけど、丸一日かけて、チャチャとお別れをした。

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あの子の身体を何度となく抱きかかえ頬にすりよせ美しく揃った毛並みの感触を味わい、けれど、その度に、もうその翼が開かれることはないこと、瞳に光がないことを確認する。 その日の夕方には、あの子の身体を花で包んだけど、それでも離れがたくて、あの子を包む箱ごと膝の上に乗せて、頭から背中に掛けて撫で続けた。 そして、その夜、相方が仕事から帰ってきた後に、住んでいるマンションの近くの木の根本に埋葬することで、私のお別れは終わった。

愛するものの亡骸と一人向き合ったつらい一日だったけど、何度も何度も愛しい死を認識することで、涙を流しながも少しずつあの子の死を受け入れていったんじゃないだろうか。

たまに「ペットは自分より早く死ぬから。つらい思いするから飼いたくない」っていう人がいる。でも、この体験はものすごく貴重で大切なことなのだと、亡骸を眼前に涙で霞んでいてもなお強く感じたことだった。そして、この体験は自分の子どもにも感じてほしいことだと思う。

そういえば、まだ私は本当に親しい人との死に立ち会ったことがない。考えると少し怖くなった。