それでも人生にイエスと言う

もう、ただの日記だに

恐怖系チェーンメールを回す行為の真意

「このメールを一週間以内にまわさないと貴方は3日以内に死にます」

人に死の宣告をする恐怖チェーンメール。そのブームは過ぎ去ってるようなので、幸いにもここ数年間はさっぱり来ない。しかし、それは私達の世代に限っての話であって、私よりもずっと若い世代では、未だに、こういった恐怖系チェーンメールは出回ってるらしい。(参考)今回は恐怖系チェーンメールについて考えていたことを話そうと思う。

初めて送られた恐怖系チェーンメール

初めて恐怖系のチェーンメールを受け取ったのは大学1年の頃だった。その時は、携帯番号だけでメールが送れた時代で、適当な番号をふってメールを送ると誰かと繋がる可能性があった。そのため、見知らぬ人から突然メールが届くこともあった。

ある日届いたメール。それは、それは「さっちゃん」の話にまつわるメールだった。 参考≫チェーンメール大倉庫:怖い【47】さっちゃん

恥ずかしい話だけど、当時大学1年だったにもかかわらず、私は本気にしていたと思う。メールをもらって「なにこれ?バカらしい」と思いながらもやはり怖かったのだ。実家を離れ、初めての一人暮らしが始まって心細かったのもあったのだろう。その後、さっちゃんが襲いにくるかもしれない…という恐怖でろくに寝れない日が続いた。そういえば、あの時は初夏だったかもしれない。暑くて足を出したいのに、布団から足を出せなかったというジレンマに悩まされていた気がする。

そう、私はどうしても誰かにメールを送ることができなかった。

理由は「チェーンメールは受け取ったら止めるのが当然」というマナーの側面からではない。「自分が送ったメールで他人を嫌な気分にさせる」とかそういう心情的な配慮の部分でもなかった。私がメールを送らなかったのは…いや、送れなかったのは、むしろ恐怖メールの内容に引きずられていたからこそで、このメールが真実だった場合を想定すると他者にメールを送るほうがよっぽど恐ろしかった。自分のメールで誰かが死ぬことになるかもしれないのである。他者の命を背負って生きるなんてごめんだった。

友人から送られた恐怖メール

実は、この恐怖メール、悲しいことに、友人からも受け取ったことがある。

内容自体は取り立てて他の恐怖系チェーンメールと大差ないが、えげつない形でバージョンUPしている部分があった。それは、転送対象が“友人”に限定されている点、そして恐怖を煽る気味の悪い画像が添付されている点だった。確かに、画像は不気味なもので、ホラー好きの私も躊躇してしまうようなものだった。

転送部分であるチェーンメール文面より前の冒頭に友人が新たに添えたであろう記述があった。

友人「ごめんね。怖くって…」

このメールを友人から送られた時、恐怖に駆られるというような思いはすでになかった。それよりも、こういう類のメールを友達に対して送信できるその友人の神経が信じられなくて、怒れたし、それ以上に悲しくて泣いた。だって、この子はメールの内容を信じたからこそ、私に送信したのだから。

勢いに任せてメールを返す。

私「こんなメールを信じる必要はないよ。今後はこういうメールは誰にも送らないほうがいいよ」

何故こんなに冷静な文面なんだろう。ひどく傷つけられた気持ちがいっぱいに広がって、涙で携帯画面のモニターがふやけてしまっているというのに、なんて下手くそなんだ。だけど、これが私の精一杯の嫌味だったのだ。私は、友人からの謝罪を期待した。

まもなく友人からメールが帰ってくる。

友人「あ、そうだよね。私、本当に怖くって。これからは信じないし、送らないようにするねっ」

友人のライトなメール文にしばらく呆然とし、その後に怒りがふつふつと沸いてくる。上手く感情表現できなかった私がこんなことを言うのは身勝手だけど、"嫌な思いをさせてごめんね"と再度言ってくれない友人に腹が立ちとまた一人泣きわめくはめになった。悲しかった。最初のメールで謝ってはくれていても、私と彼女の意識の間に温度差を感じずにはいられなかったのだ。

恐怖系チェーンメール転送の裏に秘められた人間の冷酷性

恐怖系チェーンメールを誰かに送信する行為は、「馬鹿馬鹿しいチェーンメールを信じてしまった」という一見ただの愚行にすぎないように見える。しかし、実は通常のチェーンメールよりもはるかに残酷な行為なのだと私は捉えている。なぜなら、恐怖系チェーンメールを送るという行為は 「自分が生き残るためなら、相手が死ぬことになってもかまわない」 という精神が背景になくては絶対にできない行為だからだ。

しかし悲しいかな、送信者は恐怖心に駆られそこまでは深く考えることができない。ほとぼりが冷めた後も、「人を惑わせる悪質なチェーンメールの存在」が隠れ蓑となり、恐怖系チェーンメールを送る行為の根底にある「人を犠牲にしてまで生きようとしている浅ましい自分の姿」には気づきにくくなる。

今こうして考えてみると、友人から送られた恐怖系チェーンメールで泣いたのは、別に「友人から呪いを受けた」という意味合いで泣いたのではなかったと思う。私がショックだったのは、“恐怖に包まれ、こういった行為をあっさり実行しできてしまう人の悲しい姿”と、その後、“自分の行為の真意に気づくことができない送信者の浅はかさ”に対してかもしれない。

さらに加えるなら、こういうことを平然とやってのける人間を目の当たりにして、大学1年の頃、一人でおびえ続けることになってもメールを送らないことを選択し、恐怖に耐える自分の姿がなんとなく滑稽に見えてしまったのかもしれない……たぶん、あの時抱いた自分の気持ちが無碍にされたような気分で悲しかったんだろう。

たかがチェーンメールに、何真剣に話してんの!?と思う方もいるかもしれない。しかし、その軽視が、この行為の裏にある自らの残酷性を気付きにくくさせるのだとおもう。

チェーンメールを撲滅したいなら チェーンメールが届いても、惑わされずに、誰にも送らないこと。それがマナーです。送られた方は嫌な気分になります」 という規律的な呼びかけではだめだだろう。これでは恐怖系チェーンメールを送ることが、どれだけひどい行為か気付かない。もっと、ちゃんと気付かせることができたら、思い踏みとどまる人が多くなるのではないだろうか?そう、こう言ってしまえばいい。

「恐怖系チェーンメールを送る行為は間接的な人殺し行為と同意です。」

もっとも、これは人に最低限の良心があることを信じての提案ではあるが…。

(参考リンク) 大西科学:呪術戦争-おまじないを信じますか? ここに書かれてる「呪いは怖くない。呪いをかける人間が怖いのだ。」という言葉が私の言いたいことを的確に表してくださっています。